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投稿時間:2002/01/01(Tue) 19:56
投稿者名:坊ちゃん
Eメール:fullnelson88@hotmail.com
タイトル:
『愛を与えるということ』
まあ、要旨を書いてみるが、
このご法話は、『宗教文明の激突』などにくらべ、
多分に詩的なところがある。
だから、要旨としてまとめるのには不向きで、
大川総裁の訴えたいことが、うまく伝わらないおそれがある。
そのあたり、ご了承下さい。

投稿時間:2002/01/01(Tue) 19:57
投稿者名:坊ちゃん
Eメール:fullnelson88@hotmail.com
タイトル:
要旨その1
先般、チベットの宗教指導者であるダライ・ラマが来日して、
インタビューを受けていた。
そのなかで世界的宗教指導者として重要な問題である、
「人はなぜ殺してはいけないのか?」という質問が出た。

しかしながら、それに対するダライ・ラマの答えは
充分理解できるものではなかった。
おそらく答えきれなかったのだろう。

この「殺すなかれ」という教えは、
仏教、キリスト教、ユダヤ教などにとって、大切な教えとされている。

なぜ殺してはいけないのか?
そして、殺すなかれと言われているにもかかわらず、
なぜ殺してしまうのか?
これは、哲学等によっては充分に答えられないだろう。
宗教的な問題であろう。

私たちは、個の人間としても、集団による戦争も含めて、殺してきた。
にもかかわらず「殺してはいけない」と言う。
それが当然とされつつもなぜかということに
根源的な答えがなかった。

まず挙げられる理由を簡単にいうと、生物学的本能に種の保存がある。
人類という種の保存のために殺してはならない。
もう一方において、戦争・殺し合いがなぜ起きるか。
これも種の保存のため。
敵から身を守ったり、食料確保するため。

このように、種の保存ということに関して、
「殺すなかれ」「殺せ」という背反する考え方が出てくる。

自己防衛の戦いには長い歴史ある。
民族を守るためにはある程度是認される。
しかし、釈然としない部分ある。
そこで、もう一段レベルの高いところで、人類愛とか神の心という観点が必要。
国際社会の相互依存、国連活動などは、そういった「殺すなかれ」の普遍化を
試みている。
そして、愛し合い育みあうためのバックボーンが必要だ。

投稿時間:2002/01/01(Tue) 19:59
投稿者名:坊ちゃん
Eメール:fullnelson88@hotmail.com
タイトル:
要旨その2
科学技術の発展は、基本的には唯物論に立脚する。
マルクス主義も唯物論を基礎としている。
DNAの存在が解明されて、神の領域とされたことが
人間でできるようになってきた。
旧約にでてくるバベルの塔のようなもの。

科学的分析は大切だが、
人間は所詮タンパク質のかたまりにすぎないという考えを是とするならば、
「殺すなかれ」という教えは、機械として壊さないようにという意味になる。
器物損壊の罪とかわらない。
科学の発展が人間の存在を貶めないようにしなければ。

「人とは何か?」「生命とは何か?」
この問いに対して、肉体を超えたるものを認めるかどうかが重要になってくる。
目に見えないものを認めないで探求していくと、
この世を生きやすくするための方便に過ぎなくなる。

唯物論の挑戦は百年たってもまだ終わらないようだ。
現代の人たちは、
「宗教家は昔はいたかもしれないが、現在は認められない」
というふうに考えている。
ですから、現在進行形で生きている宗教があり、
人々を輝かしているということが、大切になってくる。

「殺すなかれ」の意味がわからないことが、
オウムなどができるきっかけになっている。
麻原はダライラマと会っているそうだが、
ダライラマもオウムがなぜあのような犯罪を犯したのか理由わからないだろう。
ノーベル平和賞もらっていても根源的なものわかっていない。
しょせん政治家です。
霊的なるものを確かに言葉で理解させることは難しいが、
実体験としてつかんでいることが非常なる力を持つ。

ある団体は詐欺罪で捕まっているが、
心の世界ではみなつながっている。
霊的世界に知られたら恥ずかしいことをしていた。
日本では霊能力がないにもかかわらず、あるようなふりをすると
詐欺罪となるのかどうかは微妙なところだ。
そういうことなら、サイババなども過ぎているところある。
前にも話したが、物質化とかいって、
指輪に製造番号付いているもの出せるわけがない。
だますほうだけでなく、だまされるほうも悪いところある。
そういう目で見ていくと本物は一割ぐらいしか残らないんじゃないか。

ただ、法律で裁いてはいけないものもある。
病気直しは昔から宗教がやっているが、
現在の日本の法律にはひっかかる。
このへんは日本の法律に少し問題がある。
だいたい、この世の法律では、結果が悪くなったかどうかで犯罪になる。
しかし、宗教においては心に思っただけで罪になる。
霊的世界では思い即行動。即その人なのです。
あの世においては殺したいと思ったら殺したと同じことになる。
逆に思いにおいてよきことを思えばもう表れている。
実践していることになる。
プラスマイナスすればこの世とあの世では同じような結果となる。

投稿時間:2002/01/12(Sat) 11:00
投稿者名:坊ちゃん
Eメール:fullnelson88@hotmail.com
タイトル:
要旨その3(最終回)
あの世ではこの世に比べ善悪が極端に出てくるから、
よりコントロールが必要になってくる。
よって、あの世の視点を持つ宗教においては、
結果として出てくる行為以前において厳しいコントロールが要求される。
ここにおいて世俗法を超えた面ある。

そして、もう一つ超えた面ある。
仏教教団に逃げ込んだ人は世俗の法に引っかからない。
例えば、アングリ・マラーの場合がそうだった。
サンガの中のことにおいては、この世の法律を適用すべきではない。
西洋では教会の司祭が犯罪者をかくまっていても罪にはならない。
この世の法を超えた神の法を認めている。
こういう認識がある。
神の許し、仏陀の法というのは、この世を超えたるものである。
地球をつつみ育てている。許し育んでいる。
この認識は一緒。

しかし、オウムみたいなのもある。
詐欺師みたいなものも出てくる。
それは、宗教戦国時代を予告し、宣戦布告してきた。
そして、悪いものが次第に明らかになってきた。
それ自体は宗教の善悪が現われてきたということ。
宗教学者は、多様な価値観があっていいのではないかと、
ファジーにやってきた。
それに対し、私たちは、「いや、そうではないのですよ」
ということを言ってきたのです。

その反面として、唯物論者の邪見というのもある。
これとの戦いもこれかからも続いていく。
逆風でもあり、順風でもあるところを渡っていかねばならない。
宗教の権威は断じて保っていかねば。世のため人のため・・・。

人間が仏子であり神性を宿っている存在であることを伝えていかねばならない。
愛を伝える者であったら、だまして金を巻き上げたりするべきでない。
脅迫などするわけがない。
そういうことをするのは、自己保存だと思う。
団体の利益を擁護するのは当然だが、より大きな観点で見る必要ある。
そうでなければ、かつてのナチスのようになってしまう。

もう一段、上位の法に準じて、それを推し進めることが大切。
これまでの生き方を振り返ってみる。
「愛を与えているか」
「集団として愛を与えて生きているか」
「相手の幸福を願っているか」
自分も幸せになりたいと思うがごとく相手もそう思っている。
愛されたら、それを返していくことできる。
自分は今まで人に愛されたことがなかった、という人でも愛していくことです。

抽象的な話で、大きくなるとわからなくなるが、
愛を与えているかどうか、毎日、反省してみればいいのです。
与えること少なく、奪うことが多い。
そして、さらに奪いたいと思う心、これが煩悩ということです。

自分の欲望を適正なもの合わせていく、
欲望を捨てて幸福になるというのが仏教です。

幸福の科学が大きくなればなるほど、当時の釈尊の気持ちがわかってくる。
個人としても団体としても、
より、すばらしいもののために何ができるか。何が捨てられるか。
煩悩は欲望が悪い方向に固まること。
カスのようなもの。煙。なくすことはできない。
よく捨てることです。

愛を与えるということをお話しました。

常に原点に回帰する心を忘れないで下さい。
(了)